アメリカの新聞記者は特権階級に属する

アメリカの新聞記者は特権階級に属する

昨年はなにかと物議を醸した朝日新聞だが、その記者の平均年収は一説に1280万円で新聞業界のトップだ。リベラルを標榜しつつも、その実は資本主義社会のトップに君臨しているわけで、ネットの中では風あたりが強い。

それでも高給を取るなら取るで、その分優れた記事を書いて社会や国民に還元してくれればいい、と庶民としては願うだろうが、給料の高さと記事の質は必ずしも比例するわけではないらしい。高給がむしろ逆の効果を生むことについて、メディア学者のページは次のように語っている。

「高給に慣れたジャーナリストが普通の市民の生活感覚を失い、 普通の市民の代表として権力を監視するジャーナリズム本来の役割を果たせなくなる」

実はこれ、林香里氏の博士論文から拝借した。朝日新聞と仲がいいニューヨーク・タイムズなども超高給取りらしい。アメリカのメディアについて考える材料として、当該論文からその辺りの事情が書かれている箇所を以下に紹介する。

---------------------------------------- 引用はじめ ----------------------------------------

とりわけ主流のマスメディア企業においては、 ジャーナリストたちの 「超特権」 化が進み、 ー般市民との距離は広がる一方である。 とくに米国テレビ3大ネッ卜ワーク、CNN、『ニューヨーク・タイムズ』 および 『ワシントン・ポスト』 などで働くジャーナリストたちは、全米で選抜に選抜を重ねて選ぱれた 「パワーエリート」 たちであり、 法外な額の報酬をもらう者たちがいる。「高給に慣れたジャーナリス トが普通の市民の生活感覚を失い、 普通の市民の代表と して権力を監視するジャーナリズム本来の役割を果たせなくなる」ことについて、 米国のメディア学者 B.I.ぺージがー1992年末から 1993 年初めにかけておきた 「ゾーイ・べアード司法長官侯補辞退事件」 において明確に現れたことを例証している。

当時、 べアー ドが司法長官に就任すれば、 ク リントン政権の重要なポス トに女性が就く こと、 そして米国初の女性司法長官が実現することになり、 1992 年末の時点では 『ニューヨーク ・ タィムズ』 を初めとする多くのメディ アはべアードを歓迎していた。 しかしまもなく 、 ベアー ドが自宅にぺビー・シッター兼ドライバーとして 2 人の不法滞在のぺルー人を使用人と していていることが発覚した。 その最初の報道は 『ニューヨーク ・ タイムズ』 であったが、 そのときの同紙の扱いはむしろ 「その事実を受け入れるという立場であり、 否定的な反応や読者に怒りのきっかけを与えるような印象を持つ表現はなかった。」 CBS、 NBC、 CNNや 『ウォール・ ス トリート ・ ジャーナル』 『ワシントン・ポス ト』 も、 その報道をほとんど取り上げなかったり、 わずかに言及するだけであった。 

しかしながら、 そう した主流マスメディア以外の場所、 と りわけローカルのラジオ・ トークショーでは、 夫婦で弁護士と して法外の高収入を得るべアード候補が、 自宅に不法滞在外国人を使用人と して置き、 しかも安い賃金しか払わずに家事労働を任せていたことに対する怒りの声、 そしてそのような人問がこれから米国の司法制度の最高位に就任しよう とすることに対して強く反発する声が多く寄せられ、 電話が鳴り止まなかったという。

主流メディアのスター記者たちは議員や官僚らと同じハイ ソサエティ ・サーク ルで過ご し、 そこでは不法滞在の外国人メイ ドたちを使用人と して雇って暮らずことは全くめずらしいことではない。 (…) 多くのワシントン在住のジャーナリス トたちは (べアードと) 同様の状況にあり、彼らは初めはべアードに同情的な立揚すらとっていた。 (…) 一方で多くの普通のアメ リカ人はワシン トンのエリートたちのこう した態度に大いに反発したのだった。

こう して 「大衆の抵抗」はローカル・ メディアを舞台に姶まり、 やがて米国メディア全体に広がった。 結果的にベアー ドは候補を辞退することを余儀なく された。この事件は、 政治の重要なイッシューを掘り下げることなく一人の候補者が取り下げられるに至ったこと、 またべアー ド自身が政界におぃてロビー力がなかったこと、 などの要因が指名候補取り下げに影響しており、 それらの点を考慮に入れれば簡単に 「民衆の勝利と して賞揚することはできない。 

しかし、 日々の働き 口や賃金を心配しながら暮らすワーキング ・ クラス、 あるいは子供を預ける場所に苦労しながら何とか働き続ける米国の他の働く女性たちにとって、 ワシン卜ンの政治家と記者たちの感覚はもはや別世界のものであった。 そのよ うな 「普通の人々」 が身近に不公平を訴えることができたのは 『ニューヨーク ・ タイムズ』 でも 『ウオールス トリート ・ジャーナル』 でもなく、 地方のメディアであったという ことが示された。 その意味でこの出来事は、 米国のマスメディア景観と市民との今日的な関係を描く象徴的な事件であったと言えよう。

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林香里「<マスメディア・ジャーナリズム>の矛盾と革新」2001 p315-316
読みやすいように(  )で囲って示された引用は省き、適宜段落わけした。

林香里氏は2002年に論文の内容をもとにして、『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』(新曜社 2002)という題で単行本にまとめられている。


政治にまったく関心がなかった頃は「リベラル」と呼ばれる人々は、それはそれで何か信念を持って活動しているんだろうと思っていたものだが、最近では、「リベラル」とは思想ではなくて、既得権益に絡んだ、言論界に存在するニッチの一つだと感じることが多い。